5つの挑戦飛行

淋代海岸では、1930年から1932年にかけてアメリカ人飛行士4組、日本人飛行士1組による太平洋横断の挑戦飛行が行われました。

挑戦1

1930年9月 アメリカ人飛行士

ハロルド・ブロムリーとハロルド・ゲッティ

機名「タコマ市号」。1930年9月14日、淋代海岸を離陸するも機材トラブル(排気管からの一酸化炭素漏れ)により途中で引き返し、尻労海岸へ不時着。その後、天候不順や機材トラブル時の一酸化炭素中毒の後遺症が思うように回復せず計画を断念する。

挑戦2

1931年5月 アメリカ人飛行士

トーマス・アッシュ

「タコマ市号」に改造を施し機名「パシフィック号」に変更。1931年5月31日、滑走を開始するもエンジンの回転数が上がらず離陸できなかった。機体の軽量化を試みるも航続力の点で不可能と判断して計画を断念する。

挑戦3

1931年9月 アメリカ人飛行士

ドン・モイルとセシル・アレン

「パシフィック号」に改造を施し機名「クラシナマッジ号」に変更。1931年9月8日、淋代海岸を離陸するも途中で機材トラブル(ガソリン漏れ)がおき、計画を断念して無人島に不時着。1週間以上も消息不明とみられたが、再度離陸して燃料の限り飛行し、ロシア領マイノピリグインに着陸。ガソリン補給等を受けながら出発から30日目にタコマ市に着陸した。

挑戦4

1931年10月 アメリカ人飛行士

クライド・パングボーンとヒュー・ハーンドン

性能が優れた新しい機体を入手。機名は、ヒュー・ハーンドンの家が経営するオイル会社の社名をとって「ミス・ビードル号」とした。当初“世界一周早まわり飛行の新記録”に挑戦したが、達成不可能な状況とわかり目的を変更。仕切り直して“太平洋無着陸横断飛行”に挑戦した。1931年10月4日朝7時頃、淋代海岸を離陸。リスクを上回る利点があると総合的な判断のもと、当時の航空界の常識を覆し高々度による飛行を選択。41時間を超える飛行の末、見事世界初の偉業を成し遂げた。

挑戦5

1932年9月 日本人飛行士

機長:本間清、操縦士:馬場英一郎、通信士:井下知義

太平洋無着陸横断成功から1年、報知新聞社が計画する3回目という意味で機名「第三報知日米号」とした。1932年9月24日、横風による再三のやり直しを経て淋代海岸を離陸するも、間もなく消息が途絶える。大規模な捜索を行うが見つからず遭難と断定された。三沢市の招和台には、飛行士3名の慰霊碑がある。

参考文献:伊藤功一氏著「ミス・ビードル高くゆっくりとまっすぐに翔べ」グリーンアロー出版社